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    練吉は、癖だと見えて、折角きちんとかぶつて出たカンカン帽をいきなり指で突き上げて阿弥陀あみだにすると、いかにもだらりとした様子で歩き出した。それは、さつき別人の観があつた、てきぱきした、俊敏な医者らしい練吉から、もとの彼に逆もどりした風であつた。

    と、全然ここの温泉を軽蔑しきっていたそうで、婆さんが絶え間なくタオルで全身摩擦しながら意地ずくでつかっている温泉とは何度ぐらいだろうと興にかられたが、調査もせずに引越した。

    その時、道平がのつこりと診察室に上つて来た。やはり尻はしよりの下から真黒い両脚を円出まるだしにしたまゝで。房一が考へこんでいるのを見ると邪魔をしてはいけないとでも思つたらしく、そのまゝゆつくり診察室の中を見まはして、何か口のあたりをもぐもぐさせた。それから、医療器具棚に近づくと、そのうるんだはつきりした眼で熱心に中をのぞきこんだ。そして又、口のあたりをもぐもぐさせた。それはこんな風に云つているやうであつた。

    「いや、わしは出んぞ」と叫んだ。

    地名も旅館の名もしばらく秘しておくが、わたしがかつてある温泉旅館に投宿した時、すこし書き物をするのであるから、なるべく静かな座敷を貸してくれというと、二階の奥まった座敷へ案内され、となりへは当分お客を入れないはずであるから、ここは確かに閑静であるという。なるほどそれは好都合であると喜んでいると、三、四日の後、町の挽ひき地物じもの屋やへ買物に立寄った時、偶然にあることを聞き出した。一月ほど以前、わたしの旅館には若い男女の劇薬心中があって、それは二階の何番の座敷であるということがわかった。

    練吉は意外なことを耳にしたといふやうにちよつと房一を眺めたが、熱心に聞いていた。

    徳次は、その云ひ慣れない「往診」といふ言葉を口の中で物をころがすときのやうに珍しげに云つて見た。何か特別な響きがあつた。その時、急に彼は房一が医者だといふことを思ひ出していた。

    「消防演習だ?ふむ、よからう。そんなら訊くが、かうしてみんな集つて騒いでいるのは何のためだか知つてるか」

    だが、その不審は間もなく答へられた。房一が来た用を忘れてしばらく見恍みとれている間に、小柄な、鼠のやうに小粒な円い眼の、額の禿げ上つた男の顔が店土間からのぞいたかと思ふとすぐに下駄を突つかけて出て来た。房一が気づいた時には、その男はもう房一の真後まうしろに立つていた。黒い背広のお古にズボンだけは新しさの目立つカーキ色の乗馬用をはいて、赤銅縁の眼鏡をかけたその男は、

    と云つた。

    「うちへもかね」と訊いて置きながら、その自家うちへ寄つて行けとも云はない。房一はふと庄谷の眼尻が人並より下つて、そこが特長のある皺になつているのを認めた。その皺の奥から時々庄谷の眼がこちらの顔を撫でるやうに見ていた。さつきから何度も微笑したやうに見えたのは、この皺のせいかもしれない。

    「あれだね、君は見かけによらない――親思ひなんだね!」

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